なぜ会社を作るのか?
それは、会社という組織を作った方が効率が上がるケースが多いからです。
何年か前に有名になったアドラー心理学では、仕事(分業)について以下のような定義をいています。
われわれ人間は、ただ群れをつくったのではない。人間はここで「分業」という画期的な働き方を手に入れたのだ。分業とは、人類がその身体的劣等性を補償するために獲得した、類い希なる生存戦略なのだ。……アドラーの最終的な結論です。
岸見一郎・古賀史健「幸せになる勇気」
そして、次のような具体例を挙げています。少々長いですが、お許しください。
たとえばここに、弓矢をつくる名人がいたとします。彼のつくった弓矢を使えば、命中率は格段に向上し、殺傷能力も高くなる。
岸見一郎・古賀史健「幸せになる勇気」
けれども彼は、狩りの名人ではない。足も遅くて、視力も弱く、せっかく立派な弓矢がありながら、狩りがうまくいかない。……
そこであるとき、彼は気づくわけです。「自分は弓矢づくりに専念しよう」と。(中略)
弓矢づくりだけに専念すれば、1日のうちに何本何十本という弓矢をつくることができるでしょう。それを狩りの上手な仲間たちに配ってあげれば、彼らはいままで以上にたくさんの獲物を仕留めてくるでしょう。
あとは、彼らが持ち帰った獲物を分けてもらえばいい。それがお互いにとって利益の最大化となる選択なのですから。
(中略)
狩りの名人たちも、精度の高い弓矢が手に入るのなら、それに越したことはないはずです。自分は弓矢をつくらず、狩りだけに集中する。そして獲ってきた獲物を、みんなで山分けする。……こうして、「集団で狩りをすること」からもう一歩進んだ、より高次な分業システムが完成するわけです。
言われてみればその通りですよね。
一から十まで自分独りでやるより、得意分野の違う誰かと分業した方が効率が上がり、利益も多くなるというのは、経験上理解できます。
したがって、そもそも会社を作るのは、「得意分野の違う者同士が分業し利益を最大化するため」と言えます。
会社の定義が曖昧なことが多い
私が知っているB社の経営者は、常々「各人が自分の得意なことを持ち寄って仕事をするべきだ」と言ってました。
それを聞いた当初は素直に感心したのですが、よくよく考えると、そもそも会社は「得意分野の違う者同士が分業し利益を最大化するための組織」ですから、そんな当たり前の事を殊更強調することに違和感があります。
毛利元就の三本の矢じゃないですけど、殊更強調するのは出来ていないことの現れでしょうが、そうだとすると、そもそもB社は何?ということになってしまいます。
私の印象では、B社に限らず、このように定義が曖昧という会社が多いように思います。
何故でしょうか?
多分「和」です
そもそも「得意分野の違う者同士が分業し利益を最大化するための組織」である会社のトップが、わざわざ「各人自分の得意なことを持ち寄って仕事をするべきだ」と言っている背景を想像すると、実はそれより上位の概念があるんじゃないか?と思い至りました。
その後B社を観察していると、それは「和」ではないか?と
ウィキペディアで「和の思想」を引くと、以下のように書かれています。
日本では、個性や自由より秩序や安寧を重視する人々が、「日本人は和の心・精神を持っている民族であり、秩序や安寧を乱すような個性や自由は許されない」と主張し、集団の和を大切にすることがある。
ウィキペディア「和の思想」
まぁなんとなく分かりますよね。
件の経営者の言葉は、実はこんなイメージじゃないかと思います。
「各人自分の得意なことを持ち寄って仕事をするべきだ」
但し「和を乱さないこと」。
「和を乱さないこと」が「各人自分の得意なことを持ち寄って仕事をするべきだ」より上位か、同等という感じでしょう。
それは成立するのでしょうか?
どちらを優先すべきか?
そもそも「得意分野の違う者同士が分業し利益を最大化するための組織」が会社です。それと同等か上位の概念があると、多くの人が迷います。
「得意分野の違う者同士が~」ことと「和を乱さないこと」が相反するケースでは、どっちを優先すべきか分からなくなります。
例えば、能力のある人が仕事をさっさと終わらせて定時で帰るのを、周囲が良く思っていない。日本企業ではありがちですよね。これはどうでしょう?
「得意分野の違う者同士が~」で見れば、自分の能力を使って最小の時間で仕事を終わらすのですから、称賛されるはずです。
一方、「和を乱さないこと」で見れば、何で手伝わないんだ?となるかもしれません。
例え、手伝って欲しい仕事が、その人が苦手で、ものすごく効率が悪くても。
後者の反応も分かりますが、冷静に考えれば、私は、前者を取ります。和を乱すより乱さない方が良いですが、これが一番ではないと思っています。
再び「幸せになる勇気」から引用します。
いちばんわかりやすいところでは、運動競技のチームメイトなどは、典型的な分業の関係と言えるでしょう。
岸見一郎・古賀史健「幸せになる勇気」
試合に勝つためには、個人的な好悪を超えて協力せざるをえない。嫌いだから無視をするとか、仲が悪いから欠場するとか、そういった選択肢はありえない。
試合が始まってしまえば、「好き」も「嫌い」も忘れてしまう。チームメイトのことを「友人」としてではなく、「機能」のひとつとして判断する。そして自分自身も、機能のひとつとして優秀であろうとする。
要は、和というのは、目的ではなく手段です。
それぞれの機能や能力があってこそのチームワーク、和ですものね。
和を一番に考えて、下手くそを集めるなんてあり得ないでしょう。
単純に定義した方がいいと思います
繰り返しますが「得意分野の違う者同士が分業し利益を最大化するための組織」というのは自明のことですから、余計なことは考えずこの定義に従えば良いのです。
私が度々書いている人材採用についても、余計な思考が入るからブレるんです。
この点について、三度「幸せになる勇気」から引用します。
原則として、分業の関係においては個々人の「能力」が重要視される。たとえば企業の採用にあたっても、能力の高さが判断基準になる。これは間違いありません。
岸見一郎・古賀史健「幸せになる勇気」
しかし、分業をはじめてからの人物評価、また関係のあり方については、能力だけで判断されるものではない。むしろ「この人と一緒に働きたいか?」が大切になってくる。そうでないと、互いに助け合うことはむずかしくなりますからね。
そうした「この人と一緒に働きたいか?」「この人が困ったとき、助けたいか?」を決める最大の要因は、その人の誠実さであり、仕事に取り組む態度なのです。
私は採用に関して、「能力」を第一に挙げていますが、会社を「得意分野の違う者同士が分業し利益を最大化するための組織」とシンプルに考えれば、この主張は変ではないということが分かると思います。
ただし、一緒に長く協力するためには、お互いの人間性も重要。和も意識しなければなりません。
「社風や人間関係」を第二に置いているは、これが理由です。
ということで「そもそも会社である目的は?」なんて基本原理に近い問いをするのも、会社経営(だけじゃないですが)する上では、良いことかと思います。